[本文へ] 消費生活・消費者問題に関する事例や対処方法を紹介しています。

現在の位置 : トップページ > 相談事例・判例 > 消費者問題の判例集 > 痴ほう症の高齢者による代理権授与の効力

[1999年7月:公表]

痴ほう症の高齢者による代理権授与の効力

 本件は、弁護士を代理人として土地建物を売却した老女の相続人が、同女は代理権授与当時、痴ほうのため心神喪失状態にあったから、右代理権授与は意思能力を欠き無効であり、売買契約も無効であったとして、買主らに移転登記抹消手続きを求めたが、請求が認められなかった事例である。(東京地方裁判所平成八年十一月二十七日判決)

  • 判例時報1608号120頁

事件の概要

X:原告(痴ほう症老人Aの相続人)
Y1:被告(Aからの不動産の買主)
Y2:被告(Y1からの不動産譲受人)

(関係人)
A:痴ほう症の老人(Xの前の原告)
B:Aの実妹
C、D、E、F、G:本件建物占有者(F、Gは会社)
H:Aの売買の代理人(弁護士)

 Xが相続により原告の地位を承継する前の原告で、老齢の女性であったAが、弁護士Hに対し、Aが所有する土地建物の売買契約を締結することを委任した。HはAの代理人としてAを売主、Y1を買主として売買契約を締結し、所有権移転登記が経由され、その後、同土地建物はY1からY2に譲渡され、その旨の所有権移転登記も経由されている。

 本件は、Aの死亡後はその相続人Xが原告となり、AのHに対する代理権授与当時、Aは痴ほう状態にあり、是非弁別能力が完全に失われ、心神喪失状態にあったことが明らかであるから、右代理権授与は意思能力を欠く無効なものであり、右無効な代理権に基づく本件売買契約もまた無効であるとして、Y1及びY2に対し、本件土地建物の所有権移転登記抹消登記手続を求めたものである。

 すなわち、Aは平成4年9月28日、多発性脳梗塞症に罹患し、病院に入院し(入院は同年12月25日まで継続)、治療とリハビリ訓練を受けたが、痴ほう症状が発症している。弁護士であるHは、本件土地建物売買契約の締結につき委任状を起案して、同年11月2日、入院中のAと面談し、Aは実妹Bに手を添えられて同委任状に署名し、左手で指印した。右委任状に基づき、同年12月10日、本件売買契約が締結された。

 Xが、本件代理権授与当時、Aが心神喪失状態にあったとする理由は、次の通りである。

 (1)Aは、平成4年9月28日、多発性脳梗塞症、下肢血栓性静脈炎のため入院し、以後寝たきり老人の状態に陥っていたもので、Aが同年11月2日当時は心神喪失状態にあったことは入院中の診療録から明らかである。すなわち、(1)AにはCTスキャン検査で脳内に委縮等の症状が認められ、右脳委縮が原因で多発性脳梗塞症が発症していた。このため、Aは食事、衣服の着脱に全介助を要し、また知覚障害があるため排尿排便の判断ができず、おむつをあてていた。(2)知的能力も100引く3や昼に何を食べたのか答えられないなど、痴ほう状態がかなり進行していた。(3)痴ほう状態はその後改善をみることがなく、同年10月に入ると、コインを飲み込もうとするなど奇矯な行動を示すなどし、同年12月12日には親せきが皆死んだと話したりしている。

 (2)委任状のAの署名は、実妹のBが趣旨を理解できないAの手を取って書かせたものであり、指印もBがAの指を持って押させたものである。



理由

 次の理由により、Aは平成4年11月初めごろには多発性脳梗塞のために痴ほう症状を呈するようになっていたものの、常時判断能力を喪失していたものと断ずるには躊躇が覚えられる。(1)平成4年9月末か10月ごろにかけてのAの痴ほう症状の特徴は、簡単な計算や昼に何を食べたか答えられなかったり、硬貨を食べようとしたり、その他趣旨不明のことをしゃべったりする様子が現れているが、その間、常時判断能力が失われているというわけではなく、右計算の質問の際にも、自分の生年月日や所在場所は正確に答えている。(2)リハビリに対してその目的を理解した上でその効果のないことを訴えていることが大半であるが、意欲を持って参加していることもある。(3)全体に無気力な反応がうかがえるが、その原因は脳梗塞ばかりではなく、夫の死亡による精神的落胆に加え、Aの財産を巡る実弟や実妹の争いに起因する精神的疲労の蓄積が多大の影響を与えていることがうかがわれる。(4)特にAを身近に観察している看護婦の看護記録には、同年10月と11月中の記録としてAの気分の良いときは雑談ないし会話に興じていると記録され、本件代理権授与の日(11月2日)には、会話が良好であったことが記録されている。

 次の事実によれば、Aは本件売買契約の趣旨、目的を理解し、本件委任事項も理解し、それ故に不自由極まりない手で何とか自力で委任状に署名しようと試みたものと理解するのが合理的である。

 (1)Hは平成4年11月2日、入院中のAと面談したが、面談中HがAの判断能力に疑問を感じることはなかった。(2)AはHが弁護士であることを認識し、Aが負担していた2500万円の借入金債務の精算のために本件土地建物を売却することをHに依頼した。(3)そこで、Hが本件委任状を起案し、委任事項として右土地建物の売却、右売買代金の受領及び右債務の弁済等精算手続きを記載し、これをAに逐一説明し、同人はこれを納得した。(4)Aは、本件委任状のコピーに必死になって署名を試みたが、手が激しく震えて横長になりうまく書けず、コピー全部を失い、そのためHの指示に従い、残った原本にBが手を添えて署名し、左手で指印した。(5)HはAの翻意の機会を与える意味もあって右委任状に印鑑を押して送付するように指示したところ、右指示通り指印の横に印鑑を押なつした本件委任状がHに郵送されてきた。(6)右委任状に基づき、同年12月10日、銀行の支店で本件売買契約が締結された。

 以上によれば、代理権授与は有効であり、本件売買契約も有効である。



解説

「各人は正常な判断能力のもとにおいてした行為によってのみ、権利を取得し、義務を負う、反対に、正常な判断能力のないときにした行為からは、法律的な効果は生じない、というのが民法の原則とされている。不法行為については民法の規定がある。法律行為については、わが民法には、フランス民法と同様に規定がないが、同じと解されている。このような判断能力を、通常、ドイツ法からの訳で『意思能力』と呼んでいる。意思能力のない場合の具体例は、精神病者、赤ん坊、夢遊病者の夢の中、普通人においては、意識のないほど酩酊している場合などである。これらの状態にある人が約束をしても、民法上効果がない(「無効」)と解されている。」(星野英一『民法概論?』良書普及会、一〇二頁)。

 契約を結ぶことも法律行為であるから、意思能力が必要であり、意思能力がなければ、契約は無効である。意思能力がなかったことは、契約を無効とするものが主張、立証しなければならない。従って「現に心神喪失中であるものは、意思能力がないから、その行為は当然に無効であるが、これを主張するものは、行為当時に行為者が心神喪失中であったことを積極的に立証しなければならない。かかる立証は、特に、心神喪失の状態が間断なく続いているのでなく、ときどきは正気にかえるような者については、はなはだ困難である。それゆえ『心神喪失ノ常況ニ在ル者』に対しては、あらかじめ禁治産の宣告をなすことにより、これを概括的・恒常的に行為能力のないものとすることが必要なのである。」(鈴木ハツヨ『新版注釈民法(1)』有斐閣、二六七頁)とされている。

 本件は、まさに心神喪失の状態が間断なく続いているのではない場合の意思能力が問題となったものであり、本判決は、Aは痴ほう症状を呈するようになってはいたものの、常時判断能力を喪失していたものと断ずることには躊躇を覚えるとし、むしろ委任状作成前後の状況等からAは本件売買契約の趣旨、目的を理解していたなどとして、本件代理権授与及び本件売買契約をいずれも有効であるとした。本件は、心神喪失の状態が間断なく続いていない場合の意思能力がなかったことの立証の難しさを示した判例である。

 意思能力が問題となった近時の判例としては、禁治産者のした遺言の意思能力が問題となった、多梗塞性痴ほうの疑いはあるが意思能力を有していたとした事例(平成五年五月二十七日名古屋地裁岡崎支部判決 判例時報一四七四号一二八頁)、金銭消費貸借契約の意思能力が問題となり、自己の年齢や、妻・子の名前の区別も分からないなどの事実から契約は無効とした事例(平成五年十二月十六日仙台地裁判決 判例タイムズ八六四号二二五頁)がある。



消費者問題の判例集トップページへ

ページトップへ